生産者STORY
- 木曽路物産STORY 塩&重曹編
- 内モンゴルを西へ、西へ 『天外天塩』Story(1)
内モンゴルで有機の食材を使って味噌を作ろうと、工場が立ち上がりました。それだけで満足しない木曽路物産社長、鹿野正春さんの味噌の材料探しの旅は続きます。極上の塩がほしい。
内モンゴルをさらに西へ西へ。東西にのびた内モンゴル自治区でも西の果て、銀川市の北、ジランタイへとたどりつきました。
「ここに来る前、何か所か塩が採れるところがあると聞いて行ってみたのですが、品質が良くなく、環境も整っていなかったんです。これじゃだめだと。もっと良質の塩がないか。探した末に行き着いたのがジランタイにあるという塩湖でした。1996年のことです」と、鹿野さん。
当時は中国国内、とくに内モンゴル自治区内を外国人が自由に行き来することは許されていませんでした。通行許可証がなければ移動できない。
内モンゴル民族大学学長の秘書官と外人弁務官を兼任していたトヤさんに案内してもらい、また、内モンゴルの有力者で鹿野さんの良き理解者として協力してくれていたムルンさん、3人で、舗装されていない道路を四輪駆動の車で揺られて3日、やっとのことジランタイに入りました。
余談ですが、トヤさんは、鹿野さんの有能なスタッフのひとりとして、現在も鹿野さんをサポートしています。
数年前、ジランタイを訪ねた際、鹿野さんに周辺に広がる砂漠を案内していただきました。そこには、いたるところに貝殻が落ちていました。太古の昔、3億5千年前、この辺りは海だったのです。
長い年月のうちに水分が蒸発し、塩だけが地下に沈んだようです。ヒマラヤ山脈から脈々と流れ来る伏流水が、地下にある塩の層を溶かし、ジランタイで地上に湧き出ている。それがジランタイの塩湖です。
地下から湧き出た水は、太陽と風にさらされ、塩は花が咲くように結晶化。静かに湖の底に沈んでいきます。生活汚染の心配がまったくない。しかもミネラル分が豊富で、塩でありながら、甘さすらある。とても良質な塩でした。
各種の説があるようですが、ジランタイには120平方キロメートルにわたって塩が埋蔵されていると言われています。現在採掘しているのは、36平方キロメートル。埋蔵量はまだまだある。
まさに鹿野さんが探していた塩が、ここにありました。
- この塩をみんなに届けたい 『天外天塩』Story(2)
ジランタイに入った一行は、現地の知事を務めていた阿(アー)さん、中国銀行のリュウさんと会談しました。
「こんなところまで日本人が何をしに来たんですか?」
「ここで採れる塩がほしいんです。ウランホトに作った味噌工場で使いたい。日本にも持って行きたいんです」
外貨を獲得するチャンスになるだろうと、ジランタイ側は鹿野さんの申し出を承諾。運搬や入金の方法を打ち合わせた鹿野さんは、「日本に内モンゴルの塩を輸入しよう。安全で安心な、おいしい塩をみんなに楽しんでもらおう」と、意気揚々と帰国しました。
しかし、超えなければならない、しかもまだ誰も越えたことのない、果てしなく高いハードルが待ち受けていました。
それがいかに困難だったか知るために、当時の日本の塩事情をひも解いてみましょう。
塩とタバコは、専売法により、輸入、製造、販売、すべてに厳しい規制がありました。
しかし、塩は人間の命の源。ミネラルを豊富に含んだ自然の塩を何とか普及させたいということで、1970年、自然塩存続運動が立ち上がります。塩を作る会社を立ち上げようと、この運動から起こったのが、「伯方の塩」で知られている伯方塩業株式会社です。しかし、自然の塩をそのまま製造、販売することは許されず、伯方塩業株式会社では、やむなく、メキシコやオーストラリアから輸入した自然の塩を、瀬戸内海の海水で戻し、また製塩するという複雑な工程を経なければなりませんでした。
塩の専売制が事実上廃止になったのが1997年。以降は塩事業法に引き継がれます。そして2002年にやっと塩の販売が自由化されました。
鹿野さんが、ジランタイの塩、「天外天塩」を日本に持ってこようとしていたのは、1996年。つまり専売法の時代だったのです。
「日本に帰ってきて調べたら塩は輸入禁止。販売禁止。製造禁止。全部禁止なんです。これじゃどうにもならない。中国のことも調べたら、なんと、輸出禁止。四面楚歌。それでも私はあきらめませんでした。確信があったんです。ジランタイの塩は、きっと、みんなが欲しがるはずだと」
- 数々の難題を乗り越えて 『天外天塩』Story(3)
何とかならないかと各方面に働きかけていたら、中国で5000トンの塩を買えば、輸出権が得られるという情報を得ました。これだ。あとは日本の輸入問題を解決しなければならない。
「名古屋の税関に勤めている方がヒントをくれたんです。試験輸入小売りっていう制度があると。でも、100トンまでしか許されないというんです。中国では5000トン買わなければならない。どうしたと思いますか? 50社集めればいいって思いついた。1社100トンずつ、50社で5000トンになるじゃないかって」
50社集めるために、自分の足で営業して回りました。一つひとつ、こつこつと。
ある商社の担当者は、鹿野さんに質問したそうです。
「輸入した塩が売れなかったらどうするんですか」と。
鹿野さんは自信を持って答えたそうです。
「塩は、雪を溶かすためにも使う。融氷雪剤としてね。これが大量に必要なんです。日本の塩の消費量の8割は工業用としての用途なんです。だから、食用として販売できなくても、どこにでも売れますよ」と。
ネガティブをポジティブに。前だけを向いて歩いていく。
鹿野さんのこのバイタリティは、どこから来るのでしょうか……
「私は絶対にあきらめません。粘り強いんですね。誰もやってないことが好きなんです。とにかくチャレンジ。それから、つねに好奇心を持ってるんですよ。知りたい。行きたい。見たい。やってみたい。これです」と、自信に満ちた笑顔で答えてくれました。
このバイタリティで50社、見事に集め、ジランタイから塩の輸入が始まりました。
- バイタリティとアイディアを活かす 『天外天塩』Story(4)
「ジランタイの塩を扱い始めてわかったことなんですけれども、中国の塩をそのまま日本に持ってくるわけにはいかなかったんです。中国では、国民の健康に配慮して、塩にヨードを添加する。それから、固まらないようにフェロシアンも添加する。日本では添加物を入れてはいけませんから、添加物を排除しなければいけない」
ジランタイの工場と折衝が始まりました。日本への輸入用には別のラインを設定してくれと。独自のラインを設定してもらうためには、それだけの扱い量が必要になります。
日本で、さらなる営業活動が始まります。
「飲食店などで塩を変えるっていうのは大変なことなんです。味が変わってしまいますからね。天外天塩に変えると、おいしくなり過ぎるって、苦言を呈されたこともあります。それだったら新しいメニューを提案しようっていうことまでやりました」
また、フーデックスなど、各種の展示会にブースを出店、サンプルを配布して天外天塩をアピールしました。
「それまで日本の塩には2種類しかなかったんです。家庭用の食塩と工業用の並塩のふたつ。私はこれを36種類に分けた。細かい塩、粗い塩、岩塩、ミルをセットにしたりね。私はもともと料理人ですから、使う人が使いやすいように、それぞれの使い方、料理に合わせて提供したんです」
湖の底に沈んで長い年月をかけて固まりとなった岩塩、湧き出て結晶化した塩など、ジランタイで採れる塩には、これを可能にするだけの種類がありました。
そうやって、だんだんと、天外天塩は認知され、広がっていきました。
また、ジランタイの塩も、鹿野さんが訪ねたころは、内モンゴル向けにしか作っていなかったものが、中国全土へ、海外へも輸入されるようになり、天外天塩が認知されていくのとリンクするように工場は大きくなっていきました。これも、天外天塩の成功がひとつのきっかけになっていたと言えるでしょう。
また、中国で入手できる塩には、添加物があるため、使用できないと、中国にある日本の食料品工場でも、重宝されています。
「日本ではできないことをやろう」「日本では使えない原料を使おう」「日本ではできないものを作ろう」、3つのテーマはこうやって実現されていきました。
米から始まった鹿野さんの長い内モンゴルの旅から、味噌、麦飯石、塩、私たちは素晴らしい食材を手に入れることができるようになったのです。
- 天然由来の〈かんすい〉を探す 『シリンゴル重曹』Story(1)
実は、鹿野さんの内モンゴルの旅に、もうひとつ、語らなければならないものがあります。それが「シリンゴル重曹」です。
「私が内モンゴルに行っていることを知ったある知り合いから、『中国に天然の〈かんすい〉があるっていう話を聞いたことがある。それを探してくれないか』って言われたんです。最初は、天然の〈かんすい〉なんてあるのかって思いました。20年ぐらい前のことです」
〈かんすい〉は、中華麺特有の風味と独特のコシを高めるために欠かせないもの。通常は、化学的に合成された食品添加物〈かんすい〉が利用されています。
しかし、ラーメンの起源を探ると、そこには天然の〈かんすい〉があるはずだという話しに行きつきます。
中国奥地の湖沼から湧き出る水で小麦粉をねると、風味が豊かで、コシのある麺ができた。それがラーメンの起源だと。
だったら、その湖沼を探せばいいはずだ。
機会があるたびに、「天然の〈かんすい〉って知ってますか?」と聞いていたそうです。
そんなあるとき、鹿野さんは偶然にも「私は、天然の〈かんすい〉を精製している工場で働いていました」という方に出会いました。「案内してほしい」。そこに行こう。
それはシリンゴルというところにありました。シリンゴルという名は、「ガラスのように透明な川」という意味。どこか、ラーメンの起源を想起させるような名前です。
そこには広大な〈かんすい湖〉がありました。現在もシリンゴルには、36平方キロメートルにわたって、トロナ鉱石が埋蔵されていると言われています。トロナ鉱石とは、炭酸ナトリウムの原料として採掘されているもの。この炭酸ナトリウムが、まさに〈かんすい〉だったのです。
もともとここは、1972年、中国の軍隊が駐在し、工場を建て、小規模ながら国営企業としてスタート。トロナ鉱石を採掘して精製し、二酸化炭素を加え、重曹を作っていました。
この〈かんすい〉を『蒙古王かんすい』として、重曹を『シリンゴル重曹』として日本に紹介しようと動き始めました。
- 重曹を広める 『シリンゴル重曹』Story(2)
〈かんすい〉を輸入する際にも、鹿野さんの目の前には、大きな壁がありました。
当時の日本食品添加物協会では、天然由来の〈かんすい〉は存在しないという認識だったのです。〈かんすい〉は炭酸ナトリウムなどから工業的に加工されたものでなければならない。さらに、日本食品添加物協会が認定した「かんすい確認証」のシールが貼られていないと、〈かんすい〉として売ってはならないという厳しいものでした。
これは、粗悪な〈かんすい〉が横行しないようにという業界の規制でしたが、それが『蒙古王かんすい』には逆に作用、天然由来にもかかわらず、〈かんすい〉とは認定されませんでした。しかし、化学合成されたものとは一線を画したい。これは安全で安心できる添加物なんだ、と。
何度も日本食品添加物協会と話し合いを持ち、粘り強く交渉し、認められるには、何年も待たなければいけませんでした。
有名ラーメン店で、メニューに、「内モンゴルの天然由来かんすい使用」とあったらそれは、鹿野さんが粘り強く交渉した結果、流通することができた『蒙古王かんすい』です。
「最初、重曹は、魚を解凍するために輸入しました。海産物は鮮度を保つために獲ってから冷凍します。しかし、普通に解凍すると旨味が逃げてしまう。それじゃ意味がない。この問題を解消するのが、重曹なんです。シリンゴルでは上質なトロナ鉱石から純度の高い重曹が精製できました。食品添加物として認められるレベルの高いものです」
食品添加物として認められた重曹を洗浄用、お掃除用として各種の展示会を通じてアピールをしていた鹿野さんに、また、新たな出会いがありました。
「重曹生活のススメ」という本の著者で、ナチュラル生活研究家の岩尾明子さんとの出会いです。
「本を出版した当時は、日本では、まだ重曹は一般的ではありませんでした。薬局に行って、重曹くださいって言っても『胃薬ですよ』って言われる薬用重曹がほとんど。苦労してアメリカから輸入もしていました。そんなとき、鹿野さんが輸入している『シリンゴル重曹』を知りました。業務用は量が多い。家庭用に小分けにできませんかとお願いしたら、鹿野さんはすぐに了解してくださって、2キロの袋につめてお出ししましょうって言ってくれたんです。日本にもこんな会社があるんだ!って。『シリンゴル重曹』は、中国・内モンゴルで露天掘りしたものを使っている、天然由来素材。それに、鹿野さんの会社は食品の輸入業者さんで、重曹も食品添加物として輸入していらっしゃるっていう安心感もありました」と、岩尾明子さん。
以来、岩尾さんは、鹿野さんとのおつきあいが始まり、重曹を掘っている内モンゴル、シリンゴルにも、実際に、何度か足を運びました。
「岩尾さんと知り合って、重曹の素晴らしさを再認識しました。掃除や洗濯にも使える。環境保全に役立つ。これをもっと世の中に広めようって思いました」
鹿野さんの縦横無尽の好奇心、何ものにも屈しないバイタリティとチャレンジ精神。そこからつながった人と人とのつながり。そこから、数々の素晴らしい商品が紹介されるようになりました。