生産者STORY
- 木曽路物産STORY 味噌&麦飯石編
- 恵那峡から出発 鹿野正春さんの原点(1)
鹿野正春さんが、代表取締役を務める木曽路物産株式会社は、岐阜県の観光地、恵那峡にあります。
もともと山形県出身だった鹿野さんは、あるとき、料理関係の仕事でこの地を訪れました。恵那の自然の素晴らしさ、食材の豊富さに魅入られ、ここ、恵那峡で郷土料理店をスタート。これが木曽路物産の原点です。
「五平餅」や「山菜おこわ」「巾着飯」「朴葉寿司」などを、訪れた観光客に楽しんでいただいていました。しかし、冬は冷え込みが厳しく、観光客もまばら。もっと多くの方々に、木曽路の味を知ってもらいたい。そこで思いついたのが、百貨店で「郷土料理物産展」を開催することでした。お客さまがいらっしゃらないならば、こちらから、料理を紹介しに行こう。
そうはいっても、ことは簡単ではありません。主要都市の百貨店には毎日のように売り込みが行なわれ、担当部署は多忙。会うことすらできないのが普通です。東京、大阪、名古屋、各地の百貨店に足しげく通う毎日。東京の老舗百貨店には、38回も足を運びました。
その甲斐あって、何とか食品部長に会うことができた鹿野さんは、その場で、ひとつの提案をしました。
「まずは、木曽、飛騨にお越しください」と。実際に足を運んでいただければ、この魅力を、必ずやわかってもらえるはずだと。
食品部長に一週間の予定を組んでいただき、木曽、飛騨の魅力を、思う存分満喫してもらいました。
実際に現地を訪問した食品部長も、「郷土料理物産展は成功する」という確信を持ち、「郷土料理物産展」が実現。以来、各地で開催されました。
この「郷土料理物産展」は期間限定のもの。これを常設にしようと作られたのが「木曽路鹿野庵」という、おこわ屋さんです。いまでも、大阪の松坂屋や福島の中合百貨店など、各地にある「木曽路鹿野庵」は、多くの人に愛されています。
- 中国・内モンゴルへ 鹿野正春さんの原点(2)
鹿野さんが中国・内モンゴルに行くきっかけになったのは、1993年の冷夏でした。
凶作による米不足。輸入米に頼らなければならない。おこわ屋さんの米の調達に苦しんだ鹿野さんの頭に浮かんだのは、戦時中、満蒙開拓団として中国に行っていた伯父さんから聞いた話しでした。中国・内モンゴルのウランホトという場所の近くで、開拓団が、ダム湖や灌漑用水を作り、盛んに稲作をやっていたと。
中国・内モンゴルへ行こう。
モンゴルという名のつく地域は、ふたつあります。白鳳や朝青龍の出身地、モンゴル国。それと中国国内にある内モンゴル自治区です。鹿野さんが目指したのは、中国の内モンゴル自治区でした。
伯父さんの言葉だけを頼りに、内モンゴルに入り、ウランホトへ。
苦難の末にたどり着いたウランホトには、まさに夢のような光景が広がっていました。
大自然のなか、昔ながらの生活を営んでいる人々。大草原と、果てしなく続く田んぼと畑。しかも、このあたりは、乾燥しているので、虫もつきにくく、農薬もほとんど使わずに、手作業を中心に栽培していたのです。米だけでなく、大豆や麦も、有機栽培が基本になっていました。
米を確保した鹿野さんは、すでにつぎのことを考え始めていました。
化学物質に汚染されていない、有機栽培された米や大豆、麦がある。だったら、有機原料だけを使った味噌や醤油が作れる。さっそく味噌工場を立ち上げるべく、行動を開始。これが後に、『天外天味噌』として結実します。
- 人と人、心と心の交流を 鹿野正春さんの原点(3)
最初の訪問から、鹿野さんは、内モンゴルに何度も足を運び、『天外天味噌』『天外天塩』『麦飯石』『シリンゴル重曹』などなど、数々の商品を日本に紹介するようになりました。内モンゴルは、出身地である山形、事業をスタートさせた恵那についで、第三の「ふるさと」と言ってもいいほどに、つながりが深くなっていきました。
この第三の「ふるさと」内モンゴルは、いま沙漠化が深刻な問題になっています。
もともと乾燥している気候に加え、乱開発により、沙漠が広がり、住民の生活を脅かすまでになっています。広大な沙漠から日本にも黄砂が飛来、これは内モンゴルだけの問題ではありません。
「内モンゴルは私の第三のふるさとです。ビジネスだけの関係であってはいけません。持ってくるだけじゃだめ。内モンゴルが必要としているものがあれば提供する。内モンゴルが豊かにならなければ、私の仕事もうまくいかない。だから、沙漠化で悩んでいるのならば何とか協力しましょう。私には内モンゴルと日本のかけ橋の役目があります。人と人、心と心の交流がなければ、物事はうまく運ばない。だから沙漠化防止の植林にも協力しようと動き始めたんです」
その思いから、10年以上前、鹿野さんは、Germer Roadの関係者に植林事業への協力を依頼。Germer Roadは現地に貢献を継続しています。
- ナンバーワン、オンリーワンを目指す 鹿野正春さんの原点(4)
内モンゴルからすばらしい商品を紹介してくれている鹿野さんに、どうして、そんな遠いところへ行き、しかも商品を持ってこようと思ったんですか、と質問してみました。
「距離感っていうのは、その人の感性なんです。目的があれば、私はどこにだって行きます。好奇心がありますから。運ぶにしても、実際は自分では運ばないですよね。運ぶ専門の人にお願いすればいい。必要なのは、このすばらしい品物をみんなに知ってもらいたいっていう信念なんです」と答えてくれました。
「私の夢は『日本一』になること。業界ナンバーワン。二番はダメ。二番っていうのは二番煎じなんですよね。私の場合、誰もやらないことをやるから一番になれるチャンスがある。オンリーワンです。それから味噌、塩、重曹、どれも昔からあるものです。昔からあるものに間違いはない。これらを、より多くの人に伝えるために、展示会や雑誌、テレビ、いろんなものを使ってブームを作る。それが消費者のニーズに合っていれば、必ずみんな使ってくれます」
鹿野さんのバイタリティ。つねにチャレンジを続ける姿勢。それは、言葉では簡単に言えるものの、実際に行動するには、数多くの困難が伴います。それでも負けない粘り強さ。さらに人との出会い。人と人との交流が鹿野さんを支えているのだと感じさせられます。鹿野さんの「内モンゴルの旅」は、学ぶべき、多くの逸話に彩られています。
- 実際に現地に行く 『天外天味噌』Story(1)
内モンゴルで味噌工場を作る。工場を立ち上げるとなると、大きな資金が必要です。
日本に帰国した鹿野さんは、そのために、物産展を通じて知り合った醸造メーカーなど100社ぐらいに「中国・内モンゴルで味噌を作りませんか」と声をかけて回りました。しかし当時、中国はまだまだ遠い国だった。しかも、内モンゴル。そんなところで工場を立ち上げるなんて。どこの会社も話に乗ってきません。
そこで、中国・内モンゴルへ行くツアーを企画。
「内モンゴルに行きましょう。大草原を見に行きましょう」と声をかけ、45名の方が参加。現地では酒を酌み交わしながら、それぞれに夢を語り合いました。
「有機、無農薬の味噌を実現して、世界を相手に販売していこう」
「ここならコストを抑えて、おいしいものが作れる」
鹿野さんの夢が、参加したメンバーの方々にも通じ、それぞれの夢が広がっていったそうです。
参加会社中、13社が出資することを決定。いよいよ共同事業、「天外天」ブランドがスタートしました。
「せっかく内モンゴルで事業を始めるんだからということで、私は、3つのテーマを決めました。日本ではできないことをやろう。日本では使えない原料を使おう。日本ではできないものを作ろう、の3つです。お金が集まってからも大変でした」と鹿野さんは当時を振り返って話してくれました。
- 味噌工場の立ち上げ 『天外天味噌』Story(2)
資金が集まり、いざ、現地に工場を作ろうと言っても、それは並大抵の苦労ではありません。パイプもなく、身体ひとつで現地に乗り込んだ鹿野さんの武器は、持ち前のガッツ。百貨店に「郷土料理物産展」を売り込んだときのように、とにかく足を使って、各方面に働きかけました。何度もウランホトへ行き、役所に通い、原料を探す日々。一つひとつではありますが、着実に形になっていきました。
現在、中国・内モンゴルにある天外天味噌の工場、内蒙古万佳(わんじゃ)食品有限公司の于海龍さんも、鹿野さんの情熱を理解したひとり。当時、役人だった于さんは、鹿野さんが語る夢に可能性を感じ、工場設立の協力者になりました。
1994年、新会社、内蒙古万佳(わんじゃ)食品有限公司を設立し、工場を立ち上げました。しかし、そこから先も、さらに困難の連続です。
当時は、電話はもちろん、電気や水も、日本のように使えるような状況ではありませんでした。そもそも日本の味噌を作ったこともなく、日本の衛生基準への理解もない。
共同出資社にもなっている、長野県のマルマン株式会社から味噌づくりのプロフェッショナルが現地入りし、岐阜県の醸造業、マルコ醸造株式会社の現社長、小木曽智彦さんや木曽路物産株式会社の鹿野範雄さんも現地に常駐。作業員の教育から衛生管理、品質管理、あらゆることを徹底させたといいます。
そして、鹿野さんの「よいものは一朝一夕にできるものではない」という信念のもと、辛抱強く、製造に取り組んでいきました。
「思ったような味になるのに5年かかりました」と、鹿野範雄さん。
さらに、採算ベースに乗るには7年かかったといいます。
現在、この企業は、万佳集団(グループ)として大きく成長し、味噌や醤油の製造販売から原料である大豆、米、小麦を生産する農場、ホテル、ショッピングセンター、ファーストフードチェーンの展開など、内モンゴルでは誰もが知っている企業に成長しました。
また、2001年、日本JAS規格の有機栽培農場を建設し、中国の有機認証である緑色食品生産企業の認証を得て、さらにEUのEco-Cert、アメリカのFDA登録、NOP有機食品認定、OU正教連盟のKosher食品認定も取得。安全性をアピールして、日本のみならず、世界26か国に輸出する国際企業にまで成長しました。
- 昔ながらの作り方にこだわる 『天外天味噌』Story(3)
一般的に、日本で味噌や醤油を作る場合、その原料となる大豆は、ほとんどが「脱脂加工大豆」と言われるものを使っています。これは、大豆を砕き、油分を抜いたものです。そうすることによって、短時間での発酵が可能になり、品質を保つことにもひと役買っています。
それに対し、「丸大豆」と言われているものがあります。これは「大豆まるごと」という意味であり、油分を抜いていないということ。必ずしも、「丸い大豆」そのままという意味ではありません。手間をかけるとコストに反映されてしまう。その結果、丸いままの大豆を使うことはほとんどなくなってしまいました。
しかし、鹿野さんたちが立ち上げた天外天味噌の工場、内蒙古万佳(わんじゃ)食品有限公司では、「脱脂加工大豆」でもなく、なんと、そのままの丸い乾燥された大豆から加工に入ります。しかも、たんぱく質が多い、味噌や醤油づくりに適している品種。工場に運び込まれた丸いままの大豆は、異物混入を避け、大きさや色などの優劣を分けるため、人の手と目で、選別しています。
鹿野さんが当初掲げた3つのテーマのひとつ、「日本ではできないことをやろう」。
そのひとつが、この大豆の選別です。ここで選別された大豆は、日本にも輸入され、「天外天醤油」の原料にもなっています。
味噌を作るのに必要なもの。大豆、米、水、そして塩。
大豆は確保しました。つぎは、米です。
現在の日本の味噌づくりでは、砕米(さいまい)といって、細かく砕けてしまった米、しかも、収穫から数年経ったものを使うことが多いようですが、内モンゴルでは、収穫したままの丸い米を使うことにしました。
それから、水。水は食品づくり全般にわたって重要な要素となります。幸いウランホト周辺は、大興安嶺山脈からの伏流水に恵まれていました。
昔ながらの作り方に、徹底的にこだわって作る。
これは原料だけではありません。
内モンゴルの工場で作られた味噌は、一度、岐阜県・恵那峡に運び込まれます。この恵那で、2年間、じっくり熟成されて、やっと「天外天味噌」として出荷されていきます。
手間ひまをかけて、大量生産では実現することがむずかしかった奥深い味わいが生まれました。
- 麦飯石との出会い 『麦飯石』Story(1)
さらに、鹿野さんは内モンゴルで優れた素材を探し当てました。それが「麦飯石」です。中国の明の時代に編さんされた漢方薬書「本草網目」にも「麦飯石」は、「大略状如握聚一團麦飯、有粒点如豆如米、其色黄白」と記されている、古くから認知されているものでした。鹿野さんたちが拠点としていたウランホトから南に下った通遼市。その中心部からさらに西にある寧曼(ナイマン)。またさらに、車で2時間ほど入ったところに「麦飯石」が採れる山があるという話を聞き、早速、現地へ。
その山の麓、三口村は、昔から長寿で知られた集落でした。それも、この山に「麦飯石」があるからだと。山全体が良質の「麦飯石」だったのです。
「麦飯石」は、多孔質で、水に含まれる余分なものを吸着してくれるため、ミネラルウォーターの濾過材としても使われています。
家庭でも、水差しなどに「麦飯石」と水道水を入れ、冷蔵庫で一晩置けば、カルキ臭が抜ける。おいしくいただけ、ご飯もおいしくふっくらとした炊き上がりになります。
鹿野さんは、この「麦飯石」を日本や韓国にも紹介。「麦飯石」を使った岩盤浴もブームにまでなりました。
味噌づくりからスタートした鹿野さんの内モンゴルの旅から、数々のすばらしい商品が紹介されるようになったのです。