金先生STORY

 
金先生STORY
 
生命はバクテリアと共生している
中国科学院教授(人類遺伝学博士) 金鋒先生に聞く
遺伝子の専門家である金先生に、友人が「調べてほしいサンプル」を渡しました。そのサンプルと、乳酸菌そのものについて調べた金先生は、「生命はバクテリアと共生している」という事実に突き当たったのです。
 
「死んだ乳酸菌のほうがいい」は考えられない
 
「死んだ乳酸菌のほうがいい」は考えられない
いつも穏やかな金先生が、インタビュー中、一度だけ声を大きくしたことがありました。それは、「死んだ乳酸菌のほうがいいと書いているWebサイトもあるけれども、本当ですか」と聞いたときのことです。
金先生は、次のように説明してくれました。
「死んだ菌の悪いところは、菌が死ぬ前に、いろんな好ましくないものをつくり出して、よくないものにまみれているからです。
乳酸菌の場合は、死ぬ前に乳酸のようなものをつくります。でも、乳酸菌の本来の仕事は、乳酸をつくることではないんです。連続培養する場合は、乳酸が出ないのです。乳酸を出すのは死ぬ前です。
そういうバクテリアは、採って、増やそうとしても、非常に繁殖しにくいのです。私たちは、20歳の菌をつくっているので、そういう乳酸のようなものは出さないんです」

 
他人の悪口は言わない
 
他人の悪口は言わない
金先生は、他社製品の乳酸菌をどう考えているのでしょうか。
「わかりません」という意外な返事が返ってきました。
「私は、ほかの乳酸菌と比べてないんです。なぜなら、私がもらった乳酸菌は、みんな生きている菌と言われていましたが、みんな死んだ菌でした。いままで、生きている菌が手に入りませんでした。増やそうと思っても、増やせない。だから、生きていると言っても、うそが多いです」
死んだ菌が多いんですね。
「もうひとつ、私は、自分のものしか信じません。自分のものは、ゼロから最後まで自分で見ていますから。ほかのものはどういうふうに作っているのか、どういう培地を使っているのかわかりません。だから、あまり比較しても仕方がないのです。私の乳酸菌だって、単純に普通の培養の方法でやると、増やせません」
ただ、日本のサプリメントで腸球菌を使ったものには、違和感を持っているようです。
「日本では、よく腸球菌がサプリメントに使われていますけれども、あれは理由がわかりません。とくに飲まなくても、糞便のなかに10の12〜13乗くらいいる菌です。それが、よく使われています」
比較に関しては、研究者の立場からの発言で、金先生は締めました。
「研究者たちは、いいものを選んで、それを増やすだけで、私たちのものはいい、あれは悪いとは言いたくないものなんです。だから、ほかのものがどれだけいいのか、ちょっとわからないです」

 
『アルタイのNS乳酸菌』は活力旺盛な若い菌
 
「アルタイの乳酸菌」は若い元気な菌
一般的な乳酸菌サプリメントは、菌の数を競う製品が多いようです。
しかしながら、菌の数を競うためには、培養を繰り返しながら、発酵を限界まで進めなくてはならず、結果的に菌そのものの活力は次第に衰えてしまいます。
「私は、若い菌でないとだめだと思います。私たちがつくっている『アルタイのNS乳酸菌』は若い菌で、人間にたとえると20歳くらいの菌です。若い菌だと繁殖力が違います。歳をとったものだと、やはり繁殖力が落ちてきます」と金先生。
「乳酸菌を培養するときは、乳酸菌のエサとなるものを細かく砕き、それを乳酸菌に食べさせて、増やしていきます。大事なことは、培養の途中で止めることです。若い菌の段階で止めて、乾燥させます」
乾燥も、作物の種を乾燥させるやり方です。
「私たちの工場でつくった菌は、冷凍乾燥もしないし、加熱乾燥もしません。だから、元気がいいんです」と金先生。
このように『アルタイのNS乳酸菌』は、あえて培養初期段階で発酵を止めた、若い乳酸菌を製品化。
飲む前の菌の数を競うのではなく、実際に腸にたどり着りついて働いてくれる菌の活力に着目したのです。

 
「冷蔵庫で保存」は保険
 
「冷蔵庫で保存」は保険
『アルタイのNS乳酸菌』は、作物の種の保存に用いられるような、少し特殊な方法で乾燥しています。たとえば、単純な冷凍乾燥だと、常温に戻したとき、半年くらいで菌の数は100分の1くらいになってしまうそうです。
「冷凍乾燥のものは2パーセントの水分です。2パーセントくらいだと、細胞が壊れやすい。私たちのものは、6パーセントくらい。バスケットボールのような感じで、やや弾力性があります。
稲の種も、6パーセント以下の水分だと芽が出ません。そこで、6パーセントくらいの水分を保って貯蔵します。そうすると、2〜3年くらい常温で置いても芽が出る。ですから、バクテリアの保存も、少し水分があったほうがいいのです。それで、コントロールして水分を6パーセントにしているんです」と『アルタイのNS乳酸菌』の開発者・金先生は言います。
よって、常温で、3か月から半年置いても何も問題はありません。
「常温よりやや暑い、37度くらいのインキュベーター(培養器)に置いて、2年後に測ってみても、乳酸菌の数は変わりませんでした」(金先生)
「できるだけ冷蔵庫で保存してください」と書いてあったんですけれど?と質問したところ、金先生は、いたずらっぽい笑みを浮かべて答えました。
「それは、保険のひとつと思えばいいです」
北京で、「これ、冷蔵必要ですよね」「いや、いらないです」「ああ、死んだ菌ですね」と、やりとりがあったそうです。多少、乳酸菌の知識がある人だったら、そう考えるだろうなと思ったそうです。それからは、「冷蔵は必要ですか」という質問に対し、「必要です。でも、冷凍は絶対しないでください」と答えることにしたと言います。
冷凍は、せっかくコントロールした6パーセントの水分をとばしてしまいますからね。

 
『アルタイのNS乳酸菌』は何でも食べる
 
「アルタイの乳酸菌」は何でも食べる
新NS−Dxには、NS−8・NS−9・NS−11・NS−12・NS−5・NS−7という、働きの違う6種類の乳酸菌が配合されています。
実は、いまの日本人は、単純に栄養が足りないということではなく、食べ過ぎて消化が間に合わないということが、多くの問題を引き起こしているのです。その消化しきれないものの消化を乳酸菌が分担します。たとえば、たんぱく質はNS−8、糖類や炭水化物はNS−9、コレステロールはNS−9とNS−11、脂肪はNS−12とNS−5が引き受け、良質なアミノ酸、ビタミンおよび免疫に必要なぺプチットなどをつくり出します。
普通、バクテリアを培養するためには、培地というものを使います。ところが、金先生の方法は、まったく違います。
「培地で培養すると、私たちの考えと大幅に違う乳酸菌しかつくれません。培地というのは、普通、精製した栄養物を加え、栄養たっぷりの環境です。そこで培養した乳酸菌は、自然な環境で本当に力を発揮するかどうか、私たちとしては自信が持てません。私たちが使いたいのは、野生状態のものです。なんでも食べるタイプの乳酸菌を使いたいのです」と金先生。「なんでも食べるタイプ」というのは、私たちがなんでも食べるからなんですね。そして、「自然な環境」というのは、私たちの腸のなかのことです。
「普通は、レバーとか、筋肉のエキスなどでつくった培地で乳酸菌を増やします。私たちは、動物性のものはミルク以外使いません。増やし方が完全に違います。そういう菌をつくっています」

 
乳酸菌の培養法
 
乳酸菌の培養法
乳酸菌の研究を始めて以来、金先生は「いい発酵食品がある」と聞けば現地まで出かけ、サンプルを採取し、菌を調査し、優れた菌を培養してきました。とくに、内モンゴルの遊牧民の漬物のなかから、優秀な菌を選んできたと言います。
ところで、モンゴル人のヨーグルトは、とくに菌を入れたりせず、しぼったミルクをそのままにして、自然状態で発酵させるそうです。空気のなかにある複数の菌が、ミルクのなかで成長するのだそうです。
金先生は言います。
「それが大きなヒントになりました。種(菌)を入れて発酵させる技術が普及したのは、顕微鏡が発明されてからのことです。それ以前は、自然発酵したものを種にして、次の材料を入れて発酵させていました。つまり、個々のバクテリアは『自分が食べたい』栄養分を食べて繁殖するわけです。
それなら、私たちの消化道にいる乳酸菌は何を食べたいのか、また何を食べさせたらより繁殖するのかと考えたのです」
詳しい方法は、「まだ、特許をとってないから」と教えてもらえませんでしたが、次のお話しにそのヒントがあります。
普通、バクテリアを繁殖させるためには、培地で培養します。培地は、当然、栄養を精製して加え、栄養たっぷりの環境です。しかし、この状態で培養すると、金先生たちの考えと大幅に違ったものができてしまいます。このことを、金先生は、次の例で説明してくれました。
「動物を動物園に入れて、3世代くらい経ってから外に出すと、その動物は生きられない。自分で餌を探せないし、鶏肉、牛肉しか食べられなくなってしまっています。いま、普通にされている、培地で乳酸菌をつくる方法は、そういったやり方です。
しかし、人間の食べるものは一定しません。米が好きな人もいれば、パンが好きな人もいる。魚が好き、肉が好きという人もいる。
だから、私たちは、自然状態に本当に適応できる、野生状態の菌をつくろうとしたのです」

 
元気な菌は、内モンゴル出身
 
元気な菌は、内モンゴル出身
『アルタイのNS乳酸菌』は、人間で言えば20歳くらいの、若く、繁殖力の強い菌ですが、その菌は、もともとどこで採取されたのでしょうか。
この問題になると、雄弁な金先生の口が重くなります。
「内モンゴル、細長いでしょう。その真ん中くらいのところ。でも、あまり言わないほうがいいです」
聞けば、金先生は一昨年、内モンゴルの草原にいるときに、「あなたのせいで、いくつもの日本人のグループが何人も内モンゴルを探し回っている」と言われたそうです。
現地の人の眉をひそめさせるだけでなく、日本人グループの乳酸菌ハンターのおかげで、金先生も「被害」にあっていると言います。
「私のところに内モンゴルの人から電話が来まして、『一体、乳酸菌ってなんですか』と聞くんですよ。日本の人たちが、『乳酸菌革命』とかなんとか、そんなタイトルの本を持って、内モンゴルに来るのでしょうね。
漢字は読めますから、乳酸菌という字は読める。でも、向こうの人は乳酸菌がなんだかわからない。酸っぱいミルクとは言いますけど。もちろん、ガイドさんもわからない。それで、困ってしまって、私のところに電話が来て、『先生、乳酸菌ってなんですか? いま日本のグループが来て、乳酸菌、乳酸菌言っています』ということになったんですね。私、向こうの人に、非常に迷惑をかけました」
そんなこともあって、詳しい場所は内緒。
しかし「私、学者さんや大学生、何人もと種菌をコレクションに行きました。だから、隠す必要はないんです。でも、あまり、向こうの人に迷惑かけちゃ悪いでしょ」と金先生。

 
花粉症は
 
花粉症は
話しは変わりますが、第1号の花粉症患者は、1963年に日光で認められたそうです。それ以前の報告はありません。
このことに関して、寄生虫博士として有名な藤田紘一郎氏(東京医科歯科大名誉教授)は、戦後、日本人の免疫力が弱くなったために、花粉症が現れたと言っています。日本人3000万人が花粉症だというのは、ほとんどの日本人の免疫力が弱っているからだと言うのです。
そこからが寄生虫博士の面目躍如で、藤田教授は、昔は回虫が花粉症の発症を抑えていたと言います。1952年には、日本人の62パーセントが回虫をお腹に「飼って」いました。回虫が分泌する物質がアレルギー反応を抑え、それで花粉症が治ったというのです。
藤田教授は、15年間、体内でサナダムシを飼っていました。いままで花粉症を知らなかったのですが、5代目のマサミ(サナダムシの名前)が4年前に寿命で亡くなって、6代目を見つけられないため、このところアレルギー症状が出始めていると言います。
サナダムシは日本では絶滅したため、卵が見つけられず、カムチャッカあたりで育った鮭の切り身から、丹念に探すしかないのだそうです。
そもそも、藤田教授が寄生虫に着目したのは、東南アジアにフィールドワークに赴いたときからだそうです。そのとき、犬の死骸や排泄物が浮いているような河で水遊びをしている子どもたちがとても元気で、アレルギー症状などもまったくないことに気がついた教授は、バクテリアや寄生虫などとの「共生」という概念に突き当たります。
『アルタイのNS乳酸菌』の開発者、金先生も、昔から人類遺伝学の研究でフィールドを駆け回ってきました。そのとき、東大留学時代の恩師から、フィールドワークのときには「ハエがいっぱいついた食物も、汚いコップで出された飲み物も平然と飲めるようになることが大事」と教えられたそうです。そこから、多様性という考えに触れ、「バクテリアとの共生」という考えにたどり着きます。

 
すべての生命は共存共栄の関係がある
 
すべての生命は共存共栄の関係がある
フィールドワークで「共生」という概念を深く心に刻み込んだ金先生は、乳酸菌の開発に携わるうちに、「生物はバクテリアと共生している」との概念を拡張していきます。
人間の細胞は60兆あると言われていますが、人間と共生しているバクテリアの数はその100倍にもなると言われています。たとえば、乾燥した皮膚には1cm四方に1000個以上、湿潤な部分には100万個以上の菌がいます。口や喉には100万から10億程度、大腸のなかは最も密度が高く、1gの内容物中に1兆個のバクテリアがいると言われており、腸内菌を全部集めると2kgになると言われています。
こう考えると、一時ブームになった「抗菌製品」など、本当にばかばかしくなります。
「バクテリアが多いと汚いというのは、間違った考えです」と金先生。
それどころか、「からだの表面がバクテリアによってコーティングされているのが、いい状態」と言います。「なかには、いいバクテリアと悪いバクテリアがありますが、バランスが取れていれば、まったく問題はありません」と。

 
多様性、多形性が生命の本質
 
多様性、多形性が生命の本質
人類遺伝学には、フィールド調査が必須です。指導教官に付いて、金先生は文明から隔離された貧しい村、奥地などを、たびたび訪れました。
教官は、「そういう場所で、ハエがいっぱいたかった食物や、汚いコップで出されたお茶でも、それをよけて、平気な顔で飲めることが大事です」と、金先生を指導したそうです。「それができなければ、人類学の研究はできません」と。これは人類学の基本的な姿勢です。
ダーウィン主義的な進化史観、すなわち、文化文明は低いものから高いものに進化していくという考えでは、そもそも人類学という分野自体が成立しません。
これを、人類学の世界では、多様性や多形性という言葉で表しています。
指導教官は、少数民族の文化を尊敬し、とても大切に扱っていました。その教官に薫陶を受けた金先生も、同じように、多様性、多形性を重視していました。そして、生物も社会も、そういった方向に向かうべきだという考えに至ったのです。
遺伝学からバクテリアの研究に転進したいまも、金先生の基本的な思想は多様性、多形性にあります。金先生は、バクテリアを「多様」「微小なパートナー」と呼ぶことがよくあります。人間は微小なパートナーとの共生、共存で生きています。
2003年からバクテリアの研究を始めたあとも、この考えはますます深まっていきました。
そこから、金先生がよく言う「人間の消化道は、小さな共生生命体をのせる容器」という言い方が出てきたのです。
私たちは、腸内の微生物と共生して生きているのです。

 
遺伝子研究から乳酸菌研究へ
 
遺伝子研究から乳酸菌研究へ
金先生が乳酸菌研究を始めたきっかけをお伺いしました。それは、金先生が、北京にある中国科学院にポストを得て、研究生活に入ってからまもなくだったそうです。
ちょうど、遺伝子にスポットが当っていた時代でした。人間の遺伝子の全解析を目指した「ヒトゲノム計画」という言葉がひんぱんに新聞や雑誌に登場しました。多くの研究者は、遺伝子の解明ができれば難病の予防や治療が可能になると考えていました。金先生もそのなかのひとりでした。当時のことを、「やけど以外の病気は、すべて遺伝子が原因」という言葉が飛び交うほどだった、と金先生は振り返ります。
2000年前後に、人類は全ヒトゲノムの解析という偉業を達成しました。ところが、全遺伝子解析に成功してわかったことは、皮肉にも「遺伝子ですべてが決められているのではない」という事実でした。また、病気の原因を遺伝子から解明する道のりはまだまだ遠く、治療をすることは、さらに遠いことがわかりました。
遺伝子の研究のほかに、新たな道をさぐり始めた金先生の前に、「調べてみてくれないか」と、乳酸菌を持ち込んだ友人がいました。
それをきっかけに、まず乳酸菌の論文を1000本以上読んだ金先生は、「このような菌と共生共存することは人にとって大切なのではないか」という仮説を抱き始めます。
そうは言っても、人間で実験するわけにはいきません。そこで、豚で実験することを思い立ちました。
「豚は雑食動物で、雑菌が多い。消化系統も、腸内菌の割合も人間に似ています。実は、猿よりも、豚のほうが人間に似ているのです。
豚の実験で得られた結論はすべて、人間にも当てはまると思ったのです」と金先生は語ります。

 
乳酸菌が豚の死亡率を抑えた
 
乳酸菌が豚の死亡率を抑えた
「豚の実験で得られたことは、人間にも当てはまるはず」(金先生)というところから、豚で乳酸菌の実験をしようと金先生は考えました。しかし、実験をさせてくれる農場はなかなか見つかりませんでした。
「当初、広州のふたつの農場に白羽の矢を立てましたが、そこは、近代的な設備の整っていないところでした。あえて、汚れのひどい、条件の悪い農場を選んだわけです。1キロ離れたところにも、悪臭が届くようなところでした」(金先生)
当初、農場主は、なかなか金先生たちの実験を許可しませんでした。
ところが、その農場で病気がはやり、死亡率が70パーセントになったことで、許可がおりました。
「農場主としても打つ手がなく、わらにもすがる思いだったんでしょう」(金先生)
金先生は、自分たちのつくっている乳酸菌に、完全な自信を得ることができました。

 
金先生のお気に入りの飲み方
 
金先生のお気に入りの飲み方
『アルタイのNS乳酸菌』は、1日約2粒が標準ですが、開発者の金先生は、「私のやり方は、1粒飲んで、もう1粒は豆乳に入れて、豆乳を足して、また足して、それを何回も飲むというものです。歯や口腔をコーティングし、口臭を消すことができます。歯にもいいですよ」と言います。ただし、結果的に1日1粒になってしまうので、実際に販売している人からは、「金さん、あれは言わないほうがいい」と言われます(笑)

 
小中学校を10回転校
 
小中学校を10回転校
金先生の歩んできた道は、平穏な国で生まれ育った私たちから見ると、とても波乱万丈です。
金先生が小学校2年生になったとき、文化大革命が起こりました。中学1年生のときには、家族そろって、河南省の農村に下放されます。下放とは、文化大革命のときに行われた政策で、知識層や青年層を農村に移住させ、肉体労働を通じて思想改造し、社会国家建設に有能な国民を育てようというものでした。
このようなこともあり、金先生は小中学生時代を通じて10回の転校を重ねました。
当時は、高校を卒業するとすべての学生が農村に行き、農業を体験することになっていました。2年間の農業従事が終わり、北京に戻った金先生は、中国科学院の遺伝学研究所に入りました。といっても研究者としてではなく、技術者として働いていたのです。実験農場で小麦を受粉させ、花を袋で覆うといった作業を、来る日も来る日も繰り返しました。学者が考えた結果が出なければ、技術者は、作業の仕方が悪かったということで責められます。責任を追求された金先生は、自分の作業に問題があったのではないと証明するため、猛勉強を始めました。もちろん、独学でした。
熱心に勉強する金先生に好印象を持った科学院の付属図書館の館長は、金先生を図書館に転属させました。昼は図書館で働き、夜は受験勉強をするという生活が始まりました。
最初の大学受験は、残念ながら不合格となりました。金先生は、さらに猛勉強して翌年も再チャレンジしましたが、不合格。金先生はあきらめず、3年目もチャレンジしましたが不合格となってしまいました。
しかし、科学院の夜間大学には、無試験で入ることができました。この間の猛勉強で、実力はついていたのです。
昼は図書館で働き、夜は大学で勉強するという生活が始まりました。

 
東大理学部の博士課程を総代で卒業
 
東大理学部の博士課程を総代で卒業
科学院の夜間大学で3年間学んだあと、学位をとるために、北京師範大学に1年半通い、無事に卒業しました。
生命科学、遺伝学の研究者を目指していた金先生は、研究室の教授に相談しました。そのとき、教授から「君は何ができるのか」と問われました。金先生が「英語は完璧だと思います」と答えたため、教授は、「この論文を訳してみなさい」と言いました。金先生は1ページほど声を出して読み上げ、その場で翻訳しました。結果は合格。その場で採用が決まりました。
1982年から、5年間、同じ科学院の人類遺伝学研究所で研究生活を送りました。少数民族を調査し、血液型、たんぱく質、酵素、そして遺伝子などから、人類の移動の歴史を調べるというのがテーマでした。
東京大学との共同研究が終わり、教授から、「文部省の奨学金を申請して、日本へ留学したらどうですか」と勧められました。1987年、金先生は申請書を提出しました。申請しても、何万人にひとりしか通らない狭き門です。3か月後、金先生のもとに日本から大きな封筒が届きました。なかには奨学金の支給通知と、留学のガイドブックが入っていたのです。その年の10月、金先生は、生まれてはじめて日本の土地を踏みました。
半年間、研究生として共同研究し、教官に認められたら修士の入学試験を受けられるというのが条件でした。部屋に閉じこもって猛勉強したかいもあって、金先生は、東京大学理学部人類学科の修士課程の試験に合格。成績優良であれば博士課程に進むことができ、奨学金も延長されるので、その後も実験と勉強に励みました。結局、5年半、奨学金をもらうことができました。1993年3月、博士課程の卒業式で、理学部を代表して、総長から学位証明書を受け取りました。金先生は、36歳になっていました。他の学生より、10歳程度年上です。
金先生は、この話しをするとき、必ず、「でも、年齢は関係ありません。実際に、いつ勉強を始めても間に合うと思います」と続けます。