生産者STORY

 
川本昆布STORY
 
職人技が光る昆布は、福井の「ふるさとの味」
川本昆布食品株式会社 代表取締役社長 川本功一さんに聞く
年輩のお客さまを大事にするためには、わかりやすさが第一。ひと目でどういう商品かわかるネーミング、たとえ田舎くさいと言われても素朴なパッケージ。口コミで広げてもらうためには、そうじゃないとだめです(川本社長)。
 
「ひじきごはんフリカケ」はピカイチ商品
 
「ひじきごはんフリカケ」はピカイチ商品
Germer Roadでも人気の「ひじきごはんフリカケ」は、川本昆布株式会社でも、やはり人気商品です。「ひじきごはんが一番人気ですけど、ふりかけ全般が売れていて、いま、ふりかけは20種類くらいあります」と川本社長。
「ひじきごはんフリカケ」は、もともとドライブインや、観光地の土産品店で売っていたものでした。ところが、見ただけでは味は伝わりません。色も黒く、地味ですし、棚に並べていても、なかなか売れない。スーパーでも売れない。
「食べてさえもらえれば、必ず気に入ってもらえる」(川本社長)と、百貨店の催事などの機会に、おにぎりをつくって試食販売しました。「こんなにおいしいとは思わなかった」ということで、徐々に売れるようになってきました。
その後は、よさをわかってくださったお客さまから、口コミで広がっていくというかたちでした。川本昆布の通販部門の立ち上げに、「ひじきごはんフリカケ」は大きな貢献をしたそうです。
同じひじきのウェットタイプのふりかけでも、類似品がたくさんあります。スーパーにも並んでいますし、もっと安い価格のものもあります。
「それでも、いざ食べてみて『これは違う』という声をよく聞きます。『子どもにもわかった』ということで、うちに帰ってくるというお客さんが多いです。
敦賀出身、福井出身の人が、他県に嫁いでいって、ふるさとの味をなつかしがって、通販で買ってくださるとかそういうこともありますね」と川本社長。
発売から20年たっても、販売当時のパッケージをほとんど変えることなく、ロングセラー、ベストセラーの「ひじきごはんフリカケ」は、地味ながら、今日も口コミで、着実にファンを増やしています。
一言追加しておきますと、Germer Roadでは「ひじきごはんフリカケ」ですが、川本昆布では「ひじきごはん」という商品名です。

 
「ひじきごはんフリカケ」はロングセラー
 
「ひじきごはんフリカケ」はロングセラー
人気商品「ひじきごはんフリカケ」は、発売以来20年を超えます。
「小さなお子さんがいらっしゃる若いお母さんなんかは、『これのおかげで、子どもがご飯をいっぱい食べるようになった』とお便りをくださいますね。『こんなにお代わりするようになった』みたいなのが多いです」と川本社長は言います。
20年来、「基本的には変えていない」(川本社長)という地味なパッケージ、また、「ひじきごはん」(川本昆布株式会社での商品名)という奇をてらわないネーミングが、安定感、安心感を与え、「食」に意識的な若いお母さんの共感を呼んでいるのでしょう。
子どもに安心、安全なものを食べさせたいお母さんの立場から言うと、市販のふりかけは、キャラクター商品のようなものが多く、何が入っているかよくわからないという不安感が残るのでしょう。また、お年を召した方は、キャラクター商品のようなふりかけはちょっと食べる気はしないはずです。
その点、「ひじきごはんフリカケ」は、パッケージも透明で、中が見られて安心ということがあります。素朴なパッケージは、ナチュラル志向の表現のようにも見えます。
ひじきにも、そもそも身体にいいというイメージがありますが、やはり煮物というイメージが強く、それを手軽に、ふりかけでというのが受けている理由ではないかと、川本社長は分析します。「食感もウェットで、やわらかく、しその香りも高く、おにぎりにして、冷めてもおいしい。このことも、実演販売から立ち上がった理由のひとつですね」と川本社長。
バリエーションも生まれつつあり、「『ひじきごはん』をベースに、離乳食に使えるような軟らかいものとかも用意しています」と、川本社長。
あと10年もしないうちに、「ひじきごはん」で育った娘さんが、子どもにそれを食べさせるという、すばらしい光景が見られることでしょう。

 
おぼろ昆布の職人から小売業へ
 
おぼろ昆布の職人から小売業へ
昆布の消費量は、福井県民が一番と言われています。また、お隣の富山県では、煮〆昆布といって、生の魚を昆布で〆めて食べる文化があり、一人あたりが昆布に使う金額は日本一ということです。北陸は、食文化に深く昆布が根づいています。
ところが、北陸は、昆布の産地ではありません。
この謎を解くヒントは、同社のマーク、北前船にあります。
本社のある敦賀は北前船の寄港地で、敦賀から琵琶湖に出て、琵琶湖を運河代わりに、京、大阪に北海道の産品を送る。敦賀は、北前船の中継点だったのです。
おぼろ昆布の誕生には、台風で海水をかぶった昆布をなんとか利用できないかと、削ってみたのがはじまりというエピソードがあります。
川本社長のお父さん(先代社長。現会長)も、おぼろ昆布の一職人で、大手問屋の下請けで昆布を削っていました。30年前、40年前は、つくれば売れたという時代で、職人をどんどん養成していき、一時期100人くらいかかえていました。おぼろ昆布の製造は家内工業です。材料を持っていって、製品を持って帰り、それを問屋さんに納める。いつしか、お父さんは親方になっており、30年以上親方業を続けていました。
転機が訪れたきっかけは、オイルショックでした。それまでは「つくれ、つくれ」言っていた問屋が、手のひらを返すように、製品をとらなくなりました。お父さんは、問屋に居留守を使われたことすらあったそうです。
これが機械ならば、スイッチを切るだけですが、職人は、生活のためにつくらなければなりません。それで、親方であるお父さんのところには見る見る在庫が溜まっていきました。
自宅の寝室まで昆布が山積みになったあたりで、問屋に頼っていても仕方がないということで小売を始めたのがスタートでした。

 
おぼろ昆布の実演販売へ
 
おぼろ昆布の実演販売へ
おぼろ昆布職人の親方だった先代社長は、オイルショックの影響で、問屋が製品を取らなくなり、在庫の山を見ながら「小売するしかない」と腹をくくりました。
とは言っても、おぼろ昆布職人、親方業しかやったことのない先代は、小売のノウハウもなく、まず、一軒一軒訪問販売するところから始めました。ところが、田舎のことで、日中に回るわけですから、家にはおじいさん、おばあさんしかいません。お金も持ってないので買ってもらえません。
訪問販売に見切りをつけた先代は、いままで問屋さんが納めていた取引先、関西のスーパーなどに持ち込みました。
これはいまでもあまりいいことではありませんが、当時は完全なルール違反です。問屋に「敦賀の川本っていうのが商品を持ってきたけど、知ってるか」という情報が入ります。先代は、村八分のようになりました。もちろん、中抜きで商品を取ってくれるはずもなく、完全に取引先を失ってしまいます。
福井は海や温泉があり、観光地ですので、軒先を借りて、細々と実演販売を始めました。おぼろ昆布は手で削りますので、実演販売が可能だったのです。
あるとき、それを見た西友のバイヤーさんが、これはおもしろいということで、西友ストアでやってくれということになりました。
当時、物産展もまだめずらしい時代で、また、おぼろ昆布の製造はなかなかのパフォーマンスですので、「東京でやったらすごく受けちゃった」(川本社長)といいます。飛ぶように売れたということで、これが現在の川本昆布の礎(いしずえ)になりました。

 
「それしか道がなかった」(先代社長)
 
「それしか道がなかった」(先代社長)
オイルショックの影響で、おぼろ昆布の在庫をかかえた先代は、まず訪問販売を始め、問屋を飛び越えて売り込みをかけ、当然のように断られ、観光地の軒先で実演販売を始めました。それが、西友のバイヤーに認められ、東京進出。受けに受け、飛ぶように売れたそうです。
そこで、部屋を借りて、男性の職人を常駐させ、今週はこっち、来週はあっちというふうに催事回りを始めました。そうこうしているうちに、スーパーからデパートに売場も増えていきました。
福井の物産展や、昆布つながりで北海道物産展で実演販売をしていたわけですが、お客さんから、「福井だったら、有名な梅干があるでしょう。あれ、置いてないの」とか、「ほかの特産品はないの」と言われることも多く、取り扱い品が増えていきました。また、通販も立ち上がっていきました。それが、現在につながっています。
最初は昆布の加工品がレパートリーになり、徐々に、ほかの特産品にもつながっていきました。
創業者である先代は、「望んでやったわけではなく、それしか道がなかった。やむにやまれずやっていった結果だ」と、つねに、現社長に語っていると言います。
この精神は現社長にも受け継がれ、「何もわからずに小売をやらなきゃいけなくなって、お客さまの言われるままにやってきた。『こうしてくれれば買いますよ』『こうしてください』というのを素直にやってきただけということですね。
いろんなお客さまがいらっしゃるんで、いろんな声があって、真逆のご意見もあるんですけれども、そのへんは、いま、常連のお客さまの思いがどこにあるのかを基準にして判断させていただいていますね」(川本社長)
とは言え、「ほっといたら、どんどんお客さんは減っていきますので、新規のお客さまも獲得しないといけません。新しいことに徐々に挑戦しているというところですね」と若い二代目社長は、意欲を見せます。

 
バランスよく展開
 
バランスよく展開
「百貨店、スーパーの催事の売上は、いまは一割以下、せいぜい5パーセントとか、そんなものです」と川本社長。
それでも、直接お客さんと触れ合えるアンテナショップ的な役割があるんで、いまでも重要と川本社長は考えています。
それに直営店の売上を足して、小売が全体の四割くらい。
通販は二割くらいで推移しています。「震災を配慮して、北のほうのお客さまには、遠慮して、プッシュ型の広告は控えているんで、そのへんで、若干、昨年と比べて売上は落ちるでしょうね」と言います。
残りは、Germer Roadに提供してくださっているような、法人相手の卸。「バランスよく進んできていると思います」と川本社長。
「それでも、私どものことをご存じないお客さんは多いですし、いくらカタログを見ても味まではわかりません。私たちの商品は、知っていただければファンになっていただけるという、潜在能力を秘めている商品も多いですから、掛け橋のような効果を期待して、積極的に店舗展開をしようと考えています。催事に出て行くのも、同じ理由からです」
店舗は、品物が地味なので、年配の方が好む立地、たとえば東京だったら巣鴨のとげぬき地蔵、大阪は石切神社などに直営店を構えています。
とげぬき地蔵は、四の日が縁日。友だちの分も頼まれて買いに来てくださるお客さんでにぎわうそうです。ちょっとした観光気分で、財布の紐もゆるむのでしょうね。
地蔵通り商店街の、JR巣鴨駅から行くと一番先、都電「庚申塚」に近いあたりに、巣鴨の直営店はあります。

 
ちょっといい話し
 
ちょっといい話し
現在、川本昆布株式会社は、10を超える直営店展開をしています。
東京では、「おばあちゃんの原宿」と異名をとる、巣鴨・とげぬき地蔵の商店街に直営店があり、「縁台に座っていただいて、昆布茶でもお出しして、世間話をしながら、お買いあげいただくという、泥臭い商売をやっています」と川本社長。
この直営店を開設するにあたっての、ちょっといい話しをお聞きしました。
「直営店を構えるまでは、デパートでやっていたんです。ところが、長年やっていただいていた人が、『辞めたい』と言ってきたんです。事情を聞くと、デパートって、営業時間が長いんですね。それで、『歳をとって身体がきつい』と。
そこで、直営店なら大丈夫でしょということで、開いたんです」
これも、お客さまの言うことをよく聞いて(この場合は従業員ですが)、その意にできるだけ沿うという、川本昆布の「企業文化」を彷彿させるエピソードです。
敦賀本社の取材の翌日、巣鴨にも取材に行ってきました。
店員の方は、「歳をとって身体がきつい」とおっしゃったわりにはまだまだお元気でした。「ここは、年中無休です」というので、ますます安心。昆布茶ではなく、「あご入り・黄金のだし」を使っただし茶(?)をご馳走になり、近所数軒の分まで「ひじきごはん」(Germer Roadでは「ひじきごはんフリカケ」)やたくさんの商品を買い求め、帰ってきました。
「ひじきごはん」の話題が出たついでに、昆布同様、ひじきも敦賀は産地というわけではなく、敦賀で一次加工しているわけでもないそうです。
それでも、「観光協会などの賞をいただいたり、いまでは福井県の味、お土産品というところまで成長していますので、本当にありがたいと思います」と、川本社長は結びました。

 
昆布のトリビア
 
昆布のトリビア
川本昆布株式会社では、昆布は基本的に国産、北海道産のものしか使いません。
一口に昆布と言っても、なかなか奥が深いもののようです。
「どういうものをつくるかによって、種類、産地を選んでいます。昆布と言っても、種類も多いですし、等級がありますし、季節によっても違います。一か月早く採るだけで肉の厚さが全然違ったりします。
そのまま食べる分に関しては、春先に採ったもののほうが食感がいいとか、だしに使うんだったら、もっと遅いものがいいとか、微妙なところがあります。
贈り物用は、見かけも大事ですから等級が上のもので、幅が広くて、色も黒いものにしなければいけないとか、加工品だったら、煮炊きして姿が変わっちゃうんで、等級が低いもののほうがお客さんが買いやすいとか、使い分けをしています」(川本社長)
昆布は、収穫まで2年かかるそうです。ある程度大きくなって、生え変わって、2年で大人になります。
養殖昆布は、吊り下がるようなかっこうで育ちます。いかだに渡したロープに種を植え、そこから下にさがってきます。いかだの位置も、海水が温かくなってくると、沖のほうにもっていきます。非常にデリケートです。
産地によって、同じ品種の昆布でも、できるものが全然違ったりします。日高昆布とか、羅臼昆布と言っても、北海道は広いんで、採れる場所も広範囲で、日高地区の右と左の浜では違う。
まだ若い川本社長ですが、昆布の知識は並々ならぬものがあります。
それは、お父さん(先代社長)から教えられた知識ですかという質問に、「僕は、地元の高校を出て、海上自衛隊に入り、3年で除隊して、この会社に入りました。それまでは、昆布のことなんて、考えたこともありません。10代で昆布に詳しいなんて、おかしいでしょ(笑)」

 
「添加ブーム」が一段落してほっと一息
 
「添加ブーム」が一段落してほっと一息
健康ブームですが、昆布は身体にいいということで、昆布を添加物としていろんな食材に入れて、北海道産使用と書くと箔がつくという風潮が一時期ありました。数パーセントでも入っていれば、そう言えますので、商社などが高い値段を出して、現地で買いあさるということがあったようです。当然、国産昆布全体が値上がりしてきます。
「そうすると、うちは、たとえば塩昆布なんかは100パーセント北海道産ですから、非常に苦しくなる。5パーセントくらいなら値上がりしてもたかが知れていますけれども、100パーセントですから。
たちまち商品化できなくなってしまうんで、もう、そういうことやめてくれと思うんですけれども、漁師さんだって日銭がほしいですから、そういうところに売っちゃうんですね。
それでも、ブームがなくなると、梯子外されるように取引なくなっちゃうんで、最近は、漁師さんも、そういうところに売らないようになってきてますけれども、一時は、本当に、昆布の値段が高騰して、苦しみましたね」(川本社長)
そんな時期にも、外国産を使うということは考えなかったんでしょうか。
「そうしたら、品物が変わりますよね。味も、食感も。それに、表示義務はなくても。任意で表示するのが当たり前のようになってきているんで、とくに通信販売では、外国産だと売上に影響しますよ。国産が当たり前というイメージなんで、仮に中国産となったときに、『じゃあ、あれはどうなの。これはどうなの』とほかの商品まで波及してきて、お客さんが離れてしまうと思うんです。
安くできるというのは魅力ですけれども、お客さんを大事にしていきたいですね」(川本社長)
どこまでも、「いまいるお客さんに沿う」という基本姿勢を大事にする川本社長でした。

 
ひじきって、昆布だったっけ?
 
ひじきって、昆布だったっけ?
一番人気の「ひじきごはんフリカケ」は、まだ「海つながり」で納得できますが、いま、取扱商品で、昆布とはまったく関係ないものがあります。たとえば、最近のヒット商品である「ひとくち蜜いも」などは、種子島産の安納芋を使ったもので、昆布とも、北海道ともまったく関係ありません。
でも、これはいまに始まったことではなく、催事場回りをしていたころ、「福井物産展なのに、置いてないの?」と、福井の名産品を名指しされ、「お客さんに沿う」のが基本理念の川本昆布株式会社が徐々に取扱商品を増やしていった結果です。
それでも、やはり川本昆布の真骨頂は昆布製品にあり、「ひじきごはんフリカケ」以外にGermer Roadでご紹介させていただいている「日高昆布」は、定番商品と言っていいものです。
「昆布関連商品ですと、たとえば昆布茶がお勧めですね。
それから、ちょっと変わり種は、食べる根昆布。根には昆布の成分が凝縮されていて、身体にいいという印象が強いし、実際にいいんですけれども、硬いんで、水に浸して、染み出てきた成分を飲むんです。
でも、昆布っていろいろ種類があるんで、軟らかい昆布を使って、おやつで食べられる根昆布をつくりました。根っこの部分を酢昆布にしたものです。
根は肉が厚いんで、普通は噛み切れないんですが、それが、噛み切れる軟らかい種類の昆布で、酢昆布をつくったということです」(川本社長)
ところで、川本昆布では、取扱商品が昆布以外にも広がってきたので、「社名を変えたら?」という声が、社内外にあるそうです。
でも、川本昆布という社名は、同社の製品の、奇をてらわないネーミング、素朴、武骨なパッケージと同じように、実直で、信頼感をかもし出しているように思えます。変えないほうがいいですね。